2012年5月17日木曜日

週刊マンガ日本史の墓 - 墓マイラーが行く。


 

[1542~1616]江戸幕府初代将軍。在職1603~1605。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣氏五大老の筆頭となり、秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。秀忠に将軍職を譲ったのち駿府に隠退したが、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度などを定めて、幕政の基礎を築いた。東照大権現。

 

日光東照宮(栃木県日光市山内2301)に埋葬されています。

 

[1604~1651]江戸幕府第3代将軍。在職1623~1651。秀忠の二男。幼名、竹千代。家康・秀忠の遺志を継ぎ、武家諸法度・参勤交代の制などを整え、幕政の基礎を築いた。また、キリシタンを弾圧して鎖国体制を強化した。

 

輪王寺(栃木県日光市山内2300)に埋葬されています。

 

[1653~1724]江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者。越前の人。本名、杉森信盛。別号、巣林子。坂田藤十郎のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招いた。また、竹本義太夫のために時代物・世話物の浄瑠璃を書き、義太夫節の確立に協力した。代表作「国性爺合戦」「曽根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「傾城仏の原」など。

 

広済寺(兵庫県尼崎市久々知1-3-27)に埋葬されています。

 

[1730~1801]江戸中期の国学者。国学の四大人の一人。伊勢の人。号、舜庵(春庵)・鈴屋。京都に出て医学を修める一方、源氏物語などを研究。のち賀茂真淵に入門、古道研究を志し、「古事記伝」の著述に30余年専心。また、「てにをは」や用言の活用などの語学説、「もののあはれ」を中心とする文学論、上代の生活・精神を理想とする古道説など、多方面にわたって研究・著述に努めた。著「うひ山ぶみ」「石上私淑言」「詞の玉緒」「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「玉勝間」「鈴屋集」など。

 

山室山(三重県松阪市山室町字高峰1365)に埋葬されています。

 

[1733~1817]江戸後期の蘭方医。若狭小浜藩医の子として江戸に生まれる。名は翼、字は子鳳、号は鷧斎・九幸。前野良沢らと「ターヘル‐アナトミア」を訳出し「解体新書」として刊行。西洋医学を広く紹介した。著「蘭学事始」など。

 

栄閑院(東京都港区虎ノ門3-10-10)に埋葬されています。


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[1745~1818]江戸中期の地理学者・測量家。上総の人。高橋至時に天文暦学を学ぶ。蝦夷、のちに全国の実地測量を行い、日本最初の実測地図を作製。著「大日本沿海輿地全図」「輿地実測録」など。

 

源空寺(東京都台東区東上野6-19-2)に埋葬されています。

 

[1793~1837]江戸後期の陽明学者。阿波の人。大坂の生まれとも。名は後素。号は中斎。大坂町奉行所与力を辞職し、私塾洗心洞で子弟の教育にあたった。天保7年(1836)の飢饉に際して奉行所に救済を請うたが容れられず、蔵書を売って窮民を救った。翌8年、幕政を批判して大坂で兵を挙げたが、敗れて自殺。著「洗心洞箚記」。

 

成正寺(大阪府大阪市北区末広町1−7)に埋葬されています。

 

[1827~1898]幕末の幕臣。土佐の漁師の息子。天保12年(1841)出漁中に遭難して米船に救われ、米国で教育を受けた。嘉永4年(1851)帰国し、幕府に用いられて翻訳や軍艦操練・英語の教授にあたった。維新後、開成学校教授。

 

雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋4-25-1)に埋葬されています。

 

[1794~1858]米国の海軍軍人。東インド艦隊司令長官として、嘉永6年(1853)軍艦4隻を率いて浦賀に来航。日本に開国をせまり、翌年再び来航、日米和親条約を締結した。著「日本遠征記」。ペルリ。

 

アイランド墓地(アメリカ合衆国ロードアイランド州)に埋葬されています。

 

[1836~1867]幕末の志士。土佐藩士。名は直柔。千葉周作道場に剣を学び、のち脱藩し、勝海舟に師事。慶応2年(1866)薩長同盟成立に尽力。前土佐藩主山内豊信を説いて大政奉還を成功させたが、京都で暗殺された。

 

京都霊山護國神社(京都府京都市東山区清閑寺霊山町1)に埋葬されています。

 

[1823~1899]幕末・明治時代の政治家。江戸の人。名は義邦、のち安芳。通称、麟太郎。安房守。蘭学・兵学を学び、万延元年(1860)幕府使節とともに、咸臨丸を指揮して渡米。幕府海軍育成に尽力。幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現。明治維新後、海軍卿・枢密顧問官などを歴任。著「吹塵録」「海軍歴史」、自伝「氷川清話」など。

 


フォールズチャーチ、バージニア州にある"ダンス·コンテスト"

洗足池公園(東京都大田区南千束2-14-5)に埋葬されています。

 

[1835~1869]幕末の新撰組の副長。武蔵の人。隊長近藤勇を助けて活躍。鳥羽伏見の戦いに敗れたのちも東下して官軍に抵抗し、箱館五稜郭で戦死。

 

石田寺(東京都日野市石田1-1-10)に供養塔があります。

 

[1833~1877]政治家。長州の人。初め桂小五郎と称し、のち木戸姓。維新の三傑の一人。吉田松陰に学び、討幕の志士として活躍した。明治維新後、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などに尽力。征韓論・台湾征討に反対した。きどこういん。逃げの小五郎のあだ名もある。

 

京都霊山護國神社(京都府京都市東山区清閑寺霊山町1)に埋葬されています。

 

[1835~1901]啓蒙思想家・教育家。大坂の生まれ。豊前中津藩士。大坂で蘭学を緒方洪庵に学び、江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、のち、独学で英学を勉強。三度幕府遣外使節に随行して欧米を視察。維新後、新政府の招きに応ぜず、教育と啓蒙活動に専念。明六社を設立、「時事新報」を創刊。著「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「福翁自伝」など。

 

善福寺(東京都港区元麻布1-6-21)に埋葬されています。

 

[1828~1877]政治家。薩摩の人。通称、吉之助。号、南洲。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新の三傑の一人と称された。新政府の参議・陸軍大将となったが、明治6年(1873)征韓論に関する政変で下野、帰郷。同10年西南戦争に敗れ、城山で自殺。

 

南洲墓地(鹿児島県鹿児島市上竜尾町)に埋葬されています。

 

[1837~1919]政治家。土佐の人。愛国公党を結成し民撰議院設立建白書を提出、また土佐に立志社をつくり自由民権運動を指導した。明治14年(1881)自由党を結成。同31年、大隈重信と日本最初の政党内閣を組織、内相となった。

 

品川神社(東京都品川区北品川3-7-15)に埋葬されています。

 


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[1841~1909]政治家。山口の生まれ。吉田松陰に学び、倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たる。明治18年(1885)内閣制度を創設、初代総理大臣となった。枢密院・貴族院の初代議長を歴任。のち、立憲政友会を組織し、総裁に就任。日露戦争後、初代韓国統監となったが、ハルビンで韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

 

伊藤家墓所(東京都品川区西大井6-10-18)に埋葬されています。

 

[1841~1913]政治家。栃木の生まれ。明治23年(1890)衆議院議員、以後足尾銅山鉱毒問題に取り組み、同34年には議員を辞して天皇に直訴。次いで谷中村の遊水池化に反対。晩年は治水事業に尽力。

 

惣宗寺(栃木県佐野市金井上町2233)に埋葬されています。

 

[1847~1934]軍人。海軍大将・元帥。鹿児島の生まれ。日露戦争では連合艦隊司令長官となり、日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた。のち、軍令部長・東宮御学問所総裁を歴任。

 

多磨霊園(東京都府中市多磨町4-628)に埋葬されています。

 

[1855~1911]政治家・外交官。宮崎の生まれ。外相となり、対英米協調を主軸に大陸進出を図る小村外交を確立。日英同盟締結、ポーツマス講和条約、韓国併合、関税自主権の回復に当たった。

 

青山霊園(東京都港区南青山2-32-2)に埋葬されています。

 

[1886~1971]評論家・婦人運動家。東京の生まれ。本名、明。明治44年(1911)、女性文芸誌「青鞜」を発刊。のち、市川房枝・奥むめおらと、女性の地位向上を目ざす新婦人協会を結成して婦人参政権運動を展開。自伝「元始、女性は太陽であった」。

 

春秋苑(神奈川県川崎市多摩区南生田8-1-1)に埋葬されています。

 

[1858~1954]政治家。神奈川の生まれ。号、咢堂。明治15年(1882)立憲改進党の創立に参加。第1回総選挙以来、連続25回当選、代議士生活63年。東京市長・文相・法相を歴任。大正2年(1913)の第一次護憲運動では先頭に立って活躍。憲政の神様と称された。

 

黄梅院(神奈川県鎌倉市山ノ内428)に埋葬されています。

 


[1876~1928]細菌学者。福島の生まれ。幼名、清作。伝染病研究所に入り、北里柴三郎に師事。明治33年(1900)渡米し、蛇毒や梅毒スピロヘータを研究。ガーナのアクラで黄熱病研究中に感染して病没。

 

ウッドローン墓地(アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市)に埋葬されています。

長照寺(福島県耶麻郡猪苗代町三ツ和三城潟)に遺髪塔があります。

 

鎌倉霊園(神奈川県鎌倉市十二所512)に埋葬されています。

 

[1884~1948]軍人・政治家。陸軍大将。東京の生まれ。関東軍参謀長・陸相を経て、昭和16年(1941)首相。内相・陸相を兼任し、太平洋戦争開戦の最高責任者となったが、戦況不利となった同19年総辞職。戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、絞首刑。

 

雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋4-25-1)に埋葬されています。

 

第二次大戦末期の昭和20年(1945)、アメリカ軍との沖縄戦で従軍看護要員として動員され、戦死した沖縄師範女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒・職員のこと。両校の校章が白ゆりで、第一高等女学校の校友雑誌が「おとひめ」であったことから戦後につけられた名称。ひめゆり学徒隊。

 

沖縄県糸満市に慰霊塔である「ひめゆりの塔」があります。

 

[1880~1964]米国の陸軍軍人・元帥。太平洋戦争開戦時、米国極東軍司令官。のち、西南太平洋方面連合軍総司令官として対日反攻を指揮。戦後は日本占領連合軍最高司令官となり、民主化政策をとった。朝鮮戦争に際して強硬策を主張し、トルーマン大統領により解任。

 

アメリカ合衆国バージニア州ノーフォークに埋葬されれています。



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