2012年5月13日日曜日

浦島太郎伝説 浦嶋子伝説


5 日本各地の浦島太郎 愛知県武豊町の浦島太郎

富貴駅  愛知県知多郡武豊町に伝わる昔話には,この町が浦島太郎の故郷であると書かれています。武豊町にある富貴は「ふき」と読みますが,この読みは昔の「負亀(おぶかめ)」という地名から生まれたものです。負亀の音読みは「ふき」です。また,この地には現在も「浦之島」というような地名があります。
 町内に残る浦島太郎の史跡を順に訪ねてみました。この作成に当たっては,武豊町図書館や歴史民俗資料館に大変お世話になりました。 『武豊のむかしばなし』第14話 浦島太郎の故郷

 「・・・まず,わしが話を聞いてもらいたいもんじゃ。
 おまえさまは,富貴村の東大高の,知里付神社という神さんの東南に,『負亀(おぶがめ)』という土地があることを知っとりなさるだろうか。この土地には,浦島屋敷と呼んでいる一画もありますのじゃ。浦島太郎が,助けた亀の背に負ぶさって,ここから出かけたから,負亀というているんで,りっぱな証拠ではござんせんか。富貴(ふき)のことを,いろんなふうに言っとるようだが,この負亀を音で読みなさってごろうじろ。それ,フキと読めますじゃろうが。これが富貴という村の本当の意味と言えますまいか。 そればかりではござんせんよ。浦島川だとか浦ノ島という土地もありますのじゃ。この浦ノ 島へは,海亀がたくさんやってきて産卵したもんだと,うちのじいさんに聞いたこともある。この郷の氏神さんは知里付さんというて,近郷にも名高いお社じゃが,第11代垂仁天皇さまの26年菊月に建てられなさったという言い伝えじゃから,浦島太郎が故郷へ帰った天長2年よりも,ずうっと昔のお社じゃ。宮司さんに聞いた話じゃ,このお社には,浦島太郎の玉手箱がちゃんとしまってあるそうな。わしも覚えとるが,前のお社の棟瓦(むながわら)は亀の姿をしておったと思うがのう。おまえさん,富貴の南の海岸に,四海波(しかいなみ)というとこがあるのを知っとりなさるか。昔はこの辺は海のきれいなとこで,富貴では,終戦後も長い間,海水浴で大にぎわいしたもんだが,この四海波は,殊に景色がええところで,名古屋の 金持ちの別荘が並んどったが,あすこの堤防で,じっと海を眺めてごらんなされ。波の形が変わっとるんで,昔の人は,竜宮城の入口だと言っとった。わしがじいさんの話だと,あの浜辺は「うめきの浜」というて,浦島太郎が,玉手箱を開けたため,白髪(しらが)になってしもうて,くやしくてうめいた所じゃということだった。 この浜から一丁くらい西には,翁塚(おきなづか)という古い塚もあるし,浦島観音さんもまつられておる。 東大高の真楽寺というお寺さんには,ちゃんと亀のお墓が残されていますのじゃ。 昔,弘法大師さんが,こちらへおいでんさったとき,ああ,ここは浦島太郎の出生地だと言われて,燕子花(かきつばた)と松と竹を植えなさったのだが,燕子花は四季咲きになり,大正天皇さまが皇太子さ� ��のとき,ご覧になりましたのさ。枯れてしもうたが,松は斑入(ふいり)になり,竹は年中筍(たけのこ)が出たそうな。富貴の市場には『竜宮神社』という神さんがあって,富貴の浜が海水浴でにぎわったころ,ようお参りがあったものだったが・・・。とにかく,これだけ証拠がそろっとっても,浦島太郎の土地じゃないと言われますかの。 」

①真楽寺
 元亀元年8月に創立された寺です。大高山と号するのは,尾張藩の鷹所との関係からとも言われています。
 この寺の本堂左下に小さな石があります。これが浦島太郎が助けた亀の墓だと言われています。
真楽寺

亀の墓 ②知里付神社
 第11代垂仁天皇26年菊月に少彦名命(すくなひこのみこと)を祭神として祀られました。この神社の社宝が「あけずの箱」で,浦島太郎が竜宮城から帰るときに乙姫様から贈られたものです。
 明治時代の干ばつのとき,宮司がこの箱を船に乗せて海上でお祓いをすると,雨雲が発生し,大雨が降ったと案内板に書かれていました。

  知里付神社の境内に浦島神社があります。


知里付神社

浦島神社 ③四季咲きカキツバタ
 弘法大師がこの地に来たとき,ここが浦島太郎の生誕地であると認めたそうです。その記念にカキツバタ,松,竹を植えたそうです。カキツバタは年中きれいな花を咲かせていました。しかし,今はその痕跡もありません。現在,ここには小さな池が残り,弘法大師と書かれた石碑が立っています。


弘法大師石碑

④浦島橋
 昔はこの辺りを太郎が住んでいたところと言うことで「浦島屋敷」と呼んでいたそうです。
 浦島太郎は橋の下を流れる浦島川を下り,竜宮城に向かいました。現在,この橋のある字名は「浦之島」といいます。
国道247号・浦島橋

浦島川 ⑤負亀(おぶがめ)の松
 太郎は海岸で子どもたちにいじめられている亀を助けてやりました。その亀が住んでいたのがこの辺りで,以前は白砂の海岸で,松がたくさん生い茂っていたようです。
 亀は再び太郎の前に現れ,背に乗せて竜宮城に行きました。「亀に負(お)ぶさって」と言う意味からこの辺りの地名を負亀「おぶがめ」といいました。後に,この字の音読みの「ふき」が「富貴」と書かれ,地名となりました。
かつて負亀とよばれていた所

現在は数本の松が残っています ⑥乙姫橋
 浦島太郎を出迎えた橋と言われています。
 
乙姫橋

遠景の煙突は火力発電所のもの ⑦竜宮神社
 竜宮保育園の南に隣接しています。
 浦島太郎が竜宮城から帰った後の天長2年(825年)7月,竜宮城を偲び,海神である大綿津見神を祭神として建立されました。
 常夜灯は1854年,江戸時代後期に千石船の船主たちが海上交通の安全を祈願して奉納したものです。以前は,この辺りまで海岸だったことが分かります。
竜宮神社

小さな祠です
知多半島の東海岸

参考文献等  『武豊のむかしばなし』武豊町企画課
『もっと知ろう武豊を シリーズNo5』武豊町商工会風おこし推進委員会


高齢者尿失禁
鹿児島の浦島太郎
長崎鼻 (鹿児島県揖宿郡山川町)
龍宮神社  薩摩半島の最南端にある長崎鼻,開聞岳が眼前に迫るこの地に浦島太郎の話が伝わっています。岬にある龍宮神社には豊玉姫(乙姫様)が祀られています。「竜宮城は琉球なり」とも伝えられているのです。 寝覚の床と浦島太郎
寝覚の床(長野県木曽郡上松町) 岩の名称はここ  浦島太郎は丹後の国水之江の人です。雄略天皇の時代,沖で釣りをしていたところ亀が釣れました。供の者が殺そうとしましたが,普通の亀ではないように思え,海に逃がしてやりました。しばらく経ってから太郎が海辺の松林を歩いていたところ,美しい乙女と出会いました。太郎は乙女が誘うままに歩いていくと,水晶が敷き詰められた広い庭に着きました。そして,そこには赤い珊瑚で造られた宮殿があったのです。「ここはどこですか。」と尋ねると,乙女は「ここは常世の国で,この建物は竜宮です。」と答えました。乙女と宮殿の奧へ入っていくと黄金の冠をかぶった竜王が現れました。竜王は「私はここの王だ。お前は私の娘の命を救ってくれたからその恩返しをしたい。」と言って御馳走を並べてもてなしまし� ��。楽しい宴会が何日も続きましたが,ある時,鶏の鳴き声を聞いて故郷のことを思い出しました。急に帰りたくなった太郎が竜王にそのことを伝えると,竜王は太郎に再会を約束し,弁財天像と「万宝神書」と名付けられた巻物,さらに,「絶対に開けてはいけませんよ。」と言って小さな玉筐(たまくしげ:玉手箱)を与えました。太郎はこうして故郷に戻ってきました。しかし,故郷はすっかり変わっていました。父母も親戚も誰もいません。不思議に思って,海辺の老人に尋ねると,太郎が故郷を離れてから300年も経っていたことがわかりました。太郎は大変驚きましたが,竜王から贈られた「万宝神書」を思いだし,中を開いてみました。するとそこには飛行自在の秘術と長寿延命の秘薬の製造方法が書かれていました。そ� �を読んで飛行の術を学んだ太郎は各地を飛び回りました。その太郎が,たまたま木曽の寝覚めの里に来たのです。この地の奇岩の美しさに魅了され,ここに滞在することにしました。太郎は船や岩の上から釣りを楽しんで暮らしていました。ある時,釣り仲間と玉筐の話をしていた時,竜王との約束を忘れ,そのふたを開けてしまいました。すると,紫の煙が立ちのぼり,煙が太郎を包むと300歳の老人になってしまいました。この時同時に飛行の術も使えなくなってしまいました。嘆いてももとに戻らず,仕方なく,この地で長寿延命の薬を作って売っていました。後悔ばかりの毎日でしたが,938年の春のこと,太郎は行方知れずになってしまいました。そして,二度と再びその姿を見ることはありませんでした。しばらくして, 村人が太郎が釣りをしていた岩の上に弁財天の像が置いてあるのを見つけました。村人たちはこの岩の上に祠を建てて像を納め,寝覚山臨川寺(しんかくさんりんせんじ)を建てました。(長野県上松町 臨川寺)『ふるさとの伝説』ぎょうせい発行より
寝覚山臨川寺  寝覚山臨川寺が参拝者に配布しているパンフレットには,
浦島太郎は竜宮からもどってからどこをどう歩いたかわからないけれど,この山にたどり着いたことになっています。
 臨川寺の創建に関わる話として以下のように伝えられています。

 浦島太郎は木曽路の風景を見てなぐさめられながら,釣りをしたり,村人に竜宮の話をしたりしていました。
 ある日,土産にもらった玉手箱のことを思いだし,ふたを開けるとすぐに300歳のおじいさんになってしまいました。驚いて目が覚めたので,ここを「寝覚(ねざめ)」と言うようになりました。
 これに驚いた村人は浦島太郎に近づかなくなってしまいました。そのため,これ以上ここに住むこともできず,行方知れずとなりました。
 村人が浦島太郎が� �んでいた跡を見てみると,そこには弁財天像や釣り竿・硯といった品物が残されていました。
 村人はこれらを祠(ほこら)に納め,菩提(ぼだい)をとむらったと言われています。
 この話は今から約1200年前のことです。
                (パンフレットを要約しました)


うつ病の理論

寝覚山臨川寺 弁天堂
寝覚山臨川寺 姿見の池 
寝覚の床  寝覚の床(ねざめのとこ)は長野県木曽郡上松町にあり,国の名勝史跡天然記念物となっています。
ポットホール  木曽川の激しい流れは,花崗岩を浸食し,このような珍しい形を形成しました。所々に見られるポットホールは,川底にあるくぼみに石が入り,激しい水の流れでその石が回転することで岩が削られて鍋状の穴があいたものです。  寝覚の床には竜宮城からもどってからの伝説があります。先に紹介した話とは異なり,太郎は陸を歩いてこの地にたどり着いたとされる話とその後の話が残っています。
寝覚の床  浦島太郎は竜宮城から故郷へ帰ってきたものの,家もなく,親兄弟もおらず,さまよい歩いていました。どこをどう歩いたかわからないまま,木曽川にたどり着き,その美しい風景を見て暮らすことにしました。
 
浦島堂  浦島太郎は木曽川で釣りをしながら寂しく暮らしていましたが,ある時,乙姫様からもらった玉手箱をあけました。すると,玉手箱からは白煙が出て,300歳の白髪の翁になってしまいました。浦島太郎は今まで「夢」でも見ていたかのように思い,ここで目が覚めたようになったことから,この地を「寝覚め」というようになりました。床のような岩があるところで,「寝覚の床」と呼ぶようになったといいます。

浦島堂(臨川寺)  その後,浦島太郎は自分の姿を見て悲しみ,弁才天像や釣り竿などの遺品を残して消え去ってしまいました。村人たちはこれを小祠に納め寺を建ててその菩提をとむらったといいます。臨川寺にはそれらが祀られています。岩の上には浦島大明神を祀った浦島堂があります。  寝覚の床に隣接する寝覚の床美術公園には物語を表したオブジェがあります。 岐阜県中津川市坂下町の乙姫岩  岐阜県中津川市坂下町の木曽川に「龍宮乙姫岩」と呼ばれる岩があります。伝説によると,この岩には乙姫様が住んでいたそうです。
乙姫大橋から見る木曽川と龍宮岩・乙姫岩 他  木曽川の上流の寝覚の床で釣りをしていた浦島太郎は鉄砲水で亀岩といっしょに流されてしまいました。乙姫岩まで流され,乙姫様に助けられます。手厚く介抱され元気をとりもどしました。
乙姫大橋の浦島太郎像  やがて浦島太郎と乙姫様は恋し会うようになり,ご馳走を食べてしばらく一緒に暮らしました。そのうち浦島太郎はいつまでも甘えてばかりいてはいけないと思うようになります。そして,寝覚の床に帰ることにしました。
乙姫大橋の乙姫像  再会を約束して別れる時乙姫は袖振岩で見送りました。
龍宮岩と乙姫大橋  乙姫は龍宮で,浦島太郎は寝覚の床でいつか再会できるだろうと待っていましたが,太郎はがまんできなくなって土産にもらった玉手箱を開いてしまいました。すると,立ち上がる煙とともに白髪の老人になってしまったそうです。二人が再び会うことはできませんでした。
龍宮岩・殿岩・袖振岩・乙姫岩・獅子岩・波切岩 岐阜県各務原市の浦島太郎
不動山 岐阜県各務原市  岐阜県各務原市に前渡(まえど)というところがあります。木曽川中流部の右岸にあり,対する左岸には国宝犬山城が山の上に建っています。ここは,1221年の鎌倉時代,後鳥羽上皇が諸国の武士を集めてつくった朝廷軍が北条泰時を総大将とする鎌倉幕府と戦った「承久の乱」の戦跡地でもあります。矢熊山仙眼院(不動山・前渡不動)参道には木曽川をはさんで戦った両軍の武士のために供養塔が建てられています。
前渡猿尾堤  不動山登りり口前に,県道を挟んで赤い祠が岩の上に立っているのが見えます。これが市杵島(いちきしま)神社です。市杵嶋姫(いちきしまひめ) は日本神話では水の神として登場します。ここが木曽川の右岸にあることから祀られているものと考えましたが,この市杵島神社には弁財天が祀られています。 
 また,神社に隣接して前渡猿尾堤が残されています。これは,本堤防に当たる水の勢いを和らげる働きがある石積みの堤です。この辺りがかつて水害の多かったところで,市杵島神社があるのもわかります。
犬山城と木曽川  この神社の入り口に,弁財天の由来記があります。
<原文のまま 1>(読みやすくするため空白挿入)
 創立は承元建暦年間の頃 濃洲鵜沼の里伊木山東北木曽川の辺に龍宮ヶ城(犬山城の北方にありて現在龍宮池と称す)あり 此の下流に龍宮ヶ淵あり 附近に太郎(生れは信州上松の在に「寝醒の床」あり 其の在所と伝へらる)と云える一猟師あり 魚釣りに専念し居眠りて夜更かしゐたるに 枕辺に世にも稀なる貴美人現れて曰く 「妾と夫婦の約束して給れ」と申されたるので 太郎は余りにも事の意外に打驚き 身分の相違が甚だしいので断りたるに 美人曰く 「縁結びに身分の上下はない 是非共妾の夫になって頂くようと申され 是なる箱を渡して置く  

(簡約 : 美濃の龍宮ヶ淵に太郎という者が� �んでいました。太郎が寝ていると美人が現れ「結婚してほしい」と言われるが,身分が違うからと断ります。しかし,その美人は身分は関係ないから夫になってほしいと懇願します。そして,太郎の前に箱を置きました。)


前と後の最大体重減少

厳島神社(広島県) <原文のまま 2>
結婚式は安芸の宮島に於て挙げるから 此の箱を持参して待っていて下さるよう この箱の蓋を必ずあけないよう」との言葉に 太郎は遂に賛成承諾なし 其の箱を最も大切にかゝへ 喜び勇んで尋ね尋ねて西下し漸く安芸の国宮島にたどりつき 厳島神社辺りにて件の美人を待ち侘び 幾久しく魚釣りを渡世業として 長歳月を送りしが 先に約束をしたる美人は姿ついて真見えず

(簡約 : 「結婚式は安芸の宮島であげましょう。だからこの箱を持って待っていて下さい。」と言い残して消えました。太郎は喜んで宮島まで出かけて厳島神社付近で釣りをしながら美人が来るのを待っていました。しかし,いつまで待っても現れませんでした。)


市杵島(いちきしま)神社
岐阜県各務原市前渡東 <原文のまま 3>
落膽失望の体にて再び鵜沼の宿伊木山の東の龍宮ヶ淵と呼ぶ木曽川の本流左卷のある川岸まで舞い戻り 彼の箱の蓋をあけ曩に約束したこと如何なりしかと心乱れて 放心すること七日間も過ぎんとせし 真夜中に あら不思議なるかなや件の美人現れ「世は此の在所の下流摩免渡(今稲羽前渡東町)の 辨天岩に鎮座する辨財天であるが 先に其方に授けし奇き是なる玉手箱を所持致させ 汝の寿命の試し見んとて 今より七百三十四年前に汝に授けし是の玉手箱 今に至り 蓋を開けし故 詮方なし 若し蓋あけずして 所持致しなば 決して老衰することなく 寿命ながらうべし ゆめ疑ふこと勿れ」 と告命ありて 直ちに姿は消え給へり 

(簡約 : 落胆失望した太郎は再び龍宮ヶ淵に戻ってきまし� ��。そして箱を開けてしまいました。すると,摩免渡-まめど の弁財天が現れて,「あなたに734年前に与えた玉手箱のふたを開けなければ年を取ることはなかったのに」と言い残して消えてしまいました。)


市杵島(いちきしま)神社 <原文のまま 4>
其の不思議に感じ入り 太郎は直ちに彼の辨財天岩上に鎮座坐します大神に対し 其の奇瑞極まる霊験に深く感じ入り 感謝報恩去らず 崇敬惜かざりき 其後延命と縁結びの守護神として普く知られ 信者には必ず霊験あり 参拝者の踵をたつことなかりしと伝えられる 世に浦島太郎とは(太郎が安芸の厳島の浦に住めること七百三十四年故に後世に至り浦島太郎と名付)玉手箱に因む伝説は是れが抑もの起源なりと伝へらる 当神社は福徳寿の守護神であらせられるが 特に延命と夫婦縁結びの神として参拝者多く 縁結びの古奇大木の実存するは崇敬者の賞揚の的となっている  浦島太郎伝説の残る岐阜県各務原市と桃太郎伝説の残る愛知県犬山市・岐阜県可児市は木曽川でつながっており,これらの地域は隣接しています。不思議な感じがしています。    横浜の浦島太郎
慶運寺(神奈川県横浜市神奈川区)  神奈川県横浜市に浦島太郎を見つけました。東神奈川駅を降りて,京急線の線路沿いの道を南西方向滝の川に向かって歩きます。やがて,右に寺が見えます。門には大きく慶運寺と書かれています。そして,「龍宮伝来 浦島観世音 浦島寺」と書かれた石碑があります。この石碑は亀の背に乗っているのです。  慶運寺に浦島太郎が祀られる前は,現在浦島丘という地名があるあたりにあった観福寿寺(かんぷくじゅじ)に祀られていました。1868年にこの寺が火災で焼失したため,浦島太郎に関するものがこの寺に移されたそうです。
 後に慶運寺を「浦島寺」と呼ぶようになりました。  
浦島寺石碑  横浜市境域委員会が設置した文化財案内板によると,浦島太郎伝説は観福寿寺の縁起書にあったとされています

 相州(そうしゅう-相模国 さがみのくに )の三浦に浦島太夫という人が住んでいた。この人が仕事で丹後の国(現在の京都府北部)に移住した。移住してから生まれたのが浦島太郎で,太郎が20歳頃,澄(すみ)の江(与謝の筒川)から龍宮に行った。3年経って村に戻ってみると,父母はおらず,知人すらいない。そこで相模国三浦に戻って尋ねてみると,実は300年余り経っていることがわかった。仕方なく,再び亀に乗り,相模の海から龍宮へと戻って行き二度と戻らなかった。 『浦島太郎はどこへ行ったのか』(高橋大輔著 新潮社)の中で,筆者はさらに詳しく補足しています。それによると,龍宮から丹後に戻る時,太郎は聖観世音菩薩と玉手箱をもらいました。丹後で玉手箱を開け,白髪の老人となった太郎は三浦の里を訪れ,父の墓所に菩薩像を安置しました。そこが観福寿寺でした。また,玉手箱を開けたのが横浜へ向かう途中の箱根という説もあり,箱根の地名の由来ともなっていると紹介しています。  慶運寺境内の「浦島観世音」堂には観福寿寺から移された聖観世音菩薩が保管されています。  慶運寺境内には浦島父子碑が立っています。
 
 この寺は幕末の開港当時フランス領事館ともなっていました。門にはそれを示す石碑が立っています。
  沖縄の浦島太郎
ウサン嶽 ウサン嶽(オサン御嶽:うたき)
沖縄県島尻郡南風原町与那覇390

 沖縄の浦島太郎は「穏作根子」という名前です。「おさねし」と読みが書かれていますが,地元の人は「うさんし-」と呼んでいます。


 穏作根子は与那原の海岸で釣りをしようと歩いていると,ひとにぎりの美しい入り髪(いりがん:付け髪)が落ちているのを見つけました。それを拾うと,誰のだろうかと辺りをさがしましたが,落とし主が見つかりませんでした。次の日,また,海岸を歩いていると,一人の美しい乙女と出会いました。「もしかして,この入り髪はあなたのですか」と尋ねると,「そうです,私のです。ありがとうございました。お礼に龍宮に行きましょう。」と言いました。穏作根子は大変驚きましたが,この乙女が龍宮の乙姫と知り,案内されるまま海の中へついて行きました。
 龍宮では大変歓迎され,時間も忘れてしまうほど楽しい時を過ごしました。
沖縄の海(写真は知念の海岸)
穏作根子の墓  何日経ったでしょうか,そのうち,穏作根子は家に帰りたくなりました。乙姫は帰るのを引き留めましたが,穏作根子の思いが強いのを理解して,見送ることにしました。別れる時,乙姫は穏作根子に紙包みを渡し,「故郷に戻って,もしあなたが心細くなったらこれを持って戻って来てください。決して開けてはいけませんよ。」と言いました。
 穏作根子が帰った故郷は見たこともない景色で,そこにいる人は知らない人ばかりです。穏作根子のことを知る人も誰もいません。家族のことを聞いても何か変な顔をするだけです。実は穏作根子が龍宮に行ってすでに33世代(約100年,別に1000年経っていたという話もある)が経っていました。  途方に暮れて,桑の枝で杖を作って歩いていましたが,疲れて村の丘に座り込んでしまいました。どうしたものかと思っていると,乙姫からもらった紙包みを思い出しました。「これを開けたら龍宮に帰れるかもしれない。」と,「開けてはならない。」という乙姫の言葉を忘れて紙包みを開けてしまいました。
 紙包みの中には白髪が入っていました。すると,この白髪が飛んで穏作根子の体につき,急に年をとってそこで死んでしまいました。村人たちは穏作根子をこの丘に葬りました。
 その場所は「穏作根獄」として村の拝所になっています。穏作根子の桑の杖はやがてその丘で根付きました。
   「浦島太郎」あるいは「浦嶋子伝」の話が形作られる以前に,人が亀の背に乗って海を渡る話や海神の国へ行き3年経って戻ってきた話など,原点とも言える伝説があります。 6 浦島太郎のモデル 
龍宮へ行った彦火明命(ひこほあかりのみこと)と亀に乗った倭宿禰(やまとのすくね)
元伊勢籠神社(京都府宮津市字大垣)  天橋立の北にある元伊勢籠(もといせこの)神社は主祭神を尾張氏の祖である彦火明命(ひこほあかりのみこと:天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命)としています。
 祭神彦火明命が竹で編んだ籠船に乗って龍宮へ行かれたという伝説があり,籠神社とよばれています。これは浦島太郎のモデルとなった話ではという説があります。
倭宿禰命像 元伊勢籠神社
(やまとのすくね)  神武天皇が東遷に向かう途中,明石海峡で亀にのって現れ,神武天皇を河内や大和の国へ先導したことにより,大和建国の第一の功労者として倭宿禰の称号を賜りました。倭宿禰は尾張の国とつながりの深い海部氏の祖です。

 


天橋立  倭宿禰命像がある元伊勢籠神社は丹後半島の付け根ともいえる位置にあり,ここは古代において海人との関係が深い地域です。
 尾張地域(愛知県西部)に海部郡(あまぐん)とよばれる地域があります。尾張は古代の豪族尾張氏が支配していた地域で,伊勢湾一帯を地盤とし,日本海からの海人(あま)一族と結びついて大豪族となりました。天武天皇の元の名は大海人皇子(おおあまのおうじ)で,乳母が尾張出身だったのでこの名が付けられたと言われます。海部は「あま」とも「かいふ」とも読むことがあります。   浦島太郎のモデル ②
海幸彦・山幸彦神話

より詳しくは 海幸彦・山幸彦神話 へ


 日南海岸 青島は「海幸・山幸」神話の舞台です。この話を古事記も日本書紀もともに伝えています。  ある日のこと,弟のホオリノミコトは兄のホデリノミコトには互いに釣り竿と弓矢を取り替えてみようと提案しました。そして,兄は山へ,弟は海へ出かけました。しかし,二人とも獲物をとることはできませんでした。そこで兄は弟に「やはり本来持つべき物を持って,本来の場所へ出かけないと何も得られないから,道具を返すことにしよう。」と言いました。ところが,弟は魚がとれないばかりか,兄の大切な釣り針を海でなくしてしまっていたのです。それを聞いた兄は激怒してしまい,とにかく返せと責めてきました。そこで,自分の剣(十拳剣:とつかのつるぎと言われる剣)をこわして500本の釣り針を作り,それを持って行って償おうとしましたが,「なくした釣り針以外はいらない。」と言って許してはく� ��ませんでした。次に1000本作って持って行っても「元の針でなければだめだ。」と言われて困ってしまいました。(写真 宮崎県青島)  どんなに探しても元の針を見つけることはできません。困り果てて泣きながら海岸にたたずんでいると,潮路の神で塩椎神(シオツチノカミ)という老人と出会いました。山幸彦がわけを話すと,老人は竹で編んだ籠(かご)を作って小舟としました。そして,「この船に乗って海の国へ行きなさい。」と言いました。「私が小舟を押し流したらそのまま進みなさい。そのうちよい潮にぶつかるので,その流れに乗れば魚の鱗(うろこ)のように並ぶ宮が見えてきます。そこは綿津見の神(ワタツミノカミ:海神)の宮殿ですから,門まで行ったら,傍(かたわ)らにある泉のほとりの桂(かつら)の木がありますから,その木の上で待っていなさい。ワタツミノカミの娘があなたを見つけて取りはからってくれるでしょう。」ホオリノ� ��コトはその老人に言われるまま海に出ていきました。
 海神の国に着くと,ホオリノミコトは海神の家の前にある大きな木の上に登りました。そこへ,海神の娘,豊玉比売(トヨタマヒメ)の侍女がやってきて,木の上のホオリノミコトを見つけました。ミコトが「水がほしい。」と言うと,侍女は持っていた器に水を入れて差し出したのですが,ミコトはそれを飲むことなく,首にかけていた玉をとり,口に含んでから器の中に吐き出しました。すると,この玉は器にくっついたままとれなくなり,侍女はこれをトヨタマヒメに差し出しました。その玉を見たトヨタマヒメは門の外に誰かいるのかと尋ねると,侍女はありのままを報告しました。トヨタマヒメは自分の目で確かめようと門の外へ出ると,素晴らしい容姿のホオリノミ コトに一目惚(ひとめぼ)れしてしまいました。宮殿に戻ったトヨタマヒメはそのことを父のワタツミノカミに報告しました。ワタツミノカミはホオリノミコトが神の子とわかり,宮殿に招き入れました。そして,アシカの皮と絹で出来た敷物を何枚も重ねて座を作り,そこにホオリノミコトを座らせると,たくさんのごちそうやきれいな踊りで歓待しました。しばらくして,ホオリノミコトはトヨタマヒメと結婚し,海の神の家で暮らしました。  それから3年の月日が経ちました。ホオリノミコトは時々ため息をついて
いました。トヨタマヒメがそれを見て尋ねました。「もしかして,あなたは家に帰りたいのではありませんか。」ホオリノミコトは自分の気持ちを語りました。トヨタマヒメは父にホオリノミコトの思いを話しました。ヒメから話を聞いたワタツミノカミは「なくしたお兄さんの針を見つけてあげましょう。」と言って海の中の全部の魚を集めることにしました。すると,「鯛が『口が痛い』と言ってここに来ていません。」と魚たちが言いました。そこで鯛をよんでのどの奥を見てみると,釣り針が引っかかっていました。ワタツミノカミはこれを取り出し,清めてホオリノミコトに渡しました。また,2つの玉も渡しました。帰る時,ホオリノミ� �トは一番早いサメに乗って1日で元の海岸にたどり着きました。(写真 宮崎県青島神社) 7 日本書紀の浦島太郎
 「西暦478年雄略天皇22年の秋七月,丹波国与謝郡(よさのこおり)の筒川(つつかわ)の水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)が舟に乗って釣りをしていら大亀が釣れた。するとたちまちに乙女に化身した。浦嶋子と海に入って,蓬莱山(とこよのくに)にたどり着いた。この後は別巻で。」・・・・とあるが,「別巻」とは何?風土記を指すとも言われています。 8 万葉集の浦島太郎

高橋虫麻呂の歌

「春,霞がかかる日に住吉の海で釣り船を見ていると,はるか昔のことが思い出される。水江の浦の嶋子が鰹や鯛を釣って7日,この世と常世の境を越えてしまいました。そこで,海の神の娘である亀姫と会いました。二人は常世で結婚し,暮らしました。3年ほど経って,嶋子が「しばらく故郷に帰って,父母に今の生活を話してきたい。」と妻に言ったところ,「またここで暮らしたいのなら,決してこれを開けてはいけません」と櫛笥(くしげ:玉手箱)を渡された。こうして水江にもどった浦嶋の子だったが,3年の間に故郷はなくなり見る影もなくなっていた。箱を開ければ元に戻るかもしれないと思って開けたところ,常世の国に向かって白い雲が立ちのぼり,浦島の子は白髪の老人になってしまいました。そして,息絶え� ��死んでしまいました。」



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2012年03月のブログ|た組JAPAN

かわいそうに思い,逃がしてやるように子供たちに言いましたが,いっこうにやめてはくれ ません。そこで,持っていた ... だんだん不安になって,海岸に出て座っていた浦島太郎 ですが,玉手箱のことを思い出しました。この箱を開けるとも ..... 仁老浜方向, 晩年, 太郎は母の古里の小浜(仁老浜にろはま)に住み,ここで永眠しました。 紫雲出山への 登り ... read more

浦島太郎伝説 浦嶋子伝説

タラオが外国人の子供を家に連れてきた時は、英語が話せなくて面倒を見ることができ ず、英会話教室に通うことを検討したことが ...... カツオが子守りや留守番などをしたとき にお駄賃やお菓子などをあげたりしても、「(サザエから)怒られるんじゃないか」と不安に ... read more

オーナーの声 - 南紀白浜温泉 の民宿Aコース

2011年12月1日 ... 平成23年8月10日の花火大会映像を公開しました。 ... 料理は、大人用はボリュームも あって、伊勢えびが豪快でおいしかったけど、子供用のお子様ランチは、レトルト丸出し で ... GWに二人でこの価格に(浜っ子焼プラン)少々不安でした。 read more

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