今日は久々いっぱい寝た〜(-ω-)
んで午後はや〜っとオーストラリアの荷作り始めた(・∀・)
服やらタオルやらくつやら…
7泊するだけですっごい荷物(゚Д゚)
ブラック企業に勤めて過重労働とストレスで精神病になってしまい働けなくなる人が増えています。
この場合、選択肢は生活保護か障害年金取得のどちらかになりますが、どちらも裁定請求はかなり難しいです。
裁定が難しいのは、ひとえに市町村財政または年金財政の悪化によるものですが、財政の悪化と自分の病気は別問題です。
ネットでは詐病を使って障害年金を取れという情報が出回っていますが、医者は詐病などはすぐに見抜いてしまいます。
そこで、ブラック企業で精神を病んだ人のために裁定請求をスムースに通すコツを伝授します。
障害年金裁定請求と労災認定を通すには、本人一人だけで頑張っても多くの壁が立ちはだかるため、非常に難しいです。
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!doctype>2004/01/26
18日の日曜日、全国のマクドナルドはいつもより多い客でにぎわった。日本マクドナルドが打ち出した、無料引換券一〇〇〇万枚を配布する「マック・ハンバーガーデー」のキャンペーン効果だ。この日は「通常の日曜に比べ二六%アップの売上げ」(広報)を記録したという。
日本マクドナルドがこうした無料引き換えキャンペーンを行うのは初めてのこと。オーストラリア産牛の使用をアピールし、「ハンバーガーの安全性とおいしさを再認識してもらいたい」と、BSE(牛海綿状脳症)騒動をバネにしてPRに売って出た。
二〇〇一年の国内のBSE発生時と異なり、消費者の風評被害は少ない。昨年12月の既存� ��売上げは一・六%増と三ヵ月連続の増収、BSEによる売上げへの影響は小さいという。
一方、様相を大きく変えているのが牛丼チェーンだ。吉野家には見慣れぬ「カレー丼」の垂れ幕がかかり始めた。2月には米国産牛肉の在庫が底をつき、吉野家のほとんどの店頭から牛丼が消える。
かつて安売り競争を仕掛け、デフレの寵児といわれた両者に、BSEは異なるてん末をつきつけた。明暗を分けた理由は両者の危機管理意識の差だ。
グローバル企業のマクドナルドは、英国のBSEの洗礼を受けている。当時の英国ではハンバーガーに牛の脳を混入することが許されていたため、BSEとの関連性を疑われて売上げが激減した。このときマクドナルドは、牛肉の調達ルートの変更を行い、ナゲットやポークリブ� �いった牛肉以外のメニューの多様化、カフェやサンドイッチなどハンバーガー以外の業態の多角化を進めた。日本のマクドナルドもメニュー構成でみると、牛肉への依存率は三割足らずに過ぎない。
またマクドナルドには有名な「グローバル・パーチェシング」という全世界からの食材調達システムがある。これが日本で五九円という激安バーガーを可能にしたわけだが、世界中から同一品質の食材を手当てできるこのシステムは、リスクを分散する究極の危機管理対策でもある。ミートパテはオーストラリア、ニュージーランド、米国のどの国からも調達可能だ。またイスラム、インドなど宗教色の強い国のために開発した植物性タンパクのパテもある。
日本ではポテトを揚げる油に牛脂を使っていたが、今回すばやくそ� ��を植物油に切り替えできたのも、すでにこうした代替品をいつでも使えるからだ。食材から調理システムまで、一から開発しようと思えば一年以上はかかるだろう。
そして、まさにその対極にあるのが吉野家だ。単品メニューで合理化を図り、利益率を高めるという政策が裏目に出た。安部社長にしてみれば、リスクを承知の上で、トップブランドを死守するための賭けだったに違いない。ほかの牛丼チェーンが、国内でBSEが発症した時から牛肉以外のメニューに力を入れてきたのに対し、「うちは定食屋じゃない」と突っぱねてきた。米国以外の調達ルートの開拓も実質行ってはいなかった。
牛丼がなくなった後は代替メニューでしのぐというが、吉野家の厨房には、牛丼用の鍋と湯煎器だけしかなく、競合の松屋が 本格的なグリドル、大型電子レンジ二台などを備えているのに対して、メニューの幅も味にも限界がある。
安部社長は「牛丼がなくなっても、資金は潤沢にあり、経営の不安はない」と豪語するが、弱体化した吉野家がこのままでいられるはずがない。松屋やすき家にとっては、吉野家との差を縮める千載一遇のチャンスだ。
米国産牛肉の輸入は今月末現在、日本政府は米国の安全対策が不十分として、全頭検査と同等の対応を求める方針は変えておらず、再開のめどは立っていない。エグゼクティブトレードの関係者によると、仮に禁輸が解けても、以前のような二八〇円の牛丼を出せる見込みは低く、牛丼業界の地図が塗り変わる可能性がある。
また、吉野家を買収し傘下におさめようと虎視眈々と狙ってきた食� ��メーカーや商社が動き出す。これまで吉野家は高い収益性、高効率化で、安部社長の強いリーダーシップの下、ほかの企業に介入する隙を見せなかった。しかし今後は、安部社長の責任を問う声も出るなど会社の弱体化は否めない。
株価が下がったら買収のチャンス。皆それを狙ってくるはずだ。筆頭株主の西洋フードシステムズと大株主の伊藤忠グループの動き、誰が吉野家を買収にかかるかが今後の焦点になるだろう。
[特集]始まった回復、見えない戦略 マクドナルドは甦(よみがえ)るか
2004/01/17
外食の雄、マクドナルドの危機は日本だけではない。本国アメリカでも創業来初の赤字を出し、一時は世界的危機的状況を呈した。
昨年、いち早く回復を遂げたのは米国マクドナルドだった。余勢を駆っ� �、日本へ役員陣を派遣、米国式戦術の導入を迫る。
出店戦略と価格戦略のもつれに疲弊し、創業者・藤田田氏まで失った今の日本マクドナルドには多分、米国式でも何式でも一定の効果は上がるだろう。しかし、その先の戦略――いちばん必要なそれが、見えてこない。
どん底まで落ちた米国マックの「回復」
いち早く既存店売上高が回復した米国。「原点回帰政策」はとりあえず及第点だが、課題は山積みだ。
「傾いた船を立て直せ」
ちょうど1年前、米国マクドナルドの会長兼CEOに就任したジム・カンタルポ氏が全世界の従業員に発したメッセージには、悲壮な危機感がみなぎっていた。
カンタルポ会長の前任であるジャック・グリーンバーグ氏は財務畑出身。世界的に大量出店を続ける一方 で、単一ブランドでの成長に限界を感じ業態多角化を進めてきた。現場からのたたき上げがトップに就くのが慣例だったマクドナルドでは、同氏は異色の存在だった。マクドナルドがグローバル企業として成長していくうえで必要な人事だと思われたが、結果としてグリーンバーグ政権下で、現場の競争力は衰退した。
そこで第一線の立て直しをすべく、2001年に副会長兼社長を最後に退任していたカンタルポ氏が、急きょ呼び戻されたのだ。
マクドナルドは119カ国に3万1000もの店舗を持ち、毎日4700万食を提供している。シンボルである「ゴールデンアーチ」ともども、全世界で最も知られたブランドの一つといっていいだろう。
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[1542~1616]江戸幕府初代将軍。在職1603~1605。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣氏五大老の筆頭となり、秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。秀忠に将軍職を譲ったのち駿府に隠退したが、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度などを定めて、幕政の基礎を築いた。東照大権現。
日光東照宮(栃木県日光市山内2301)に埋葬されています。
[1604~1651]江戸幕府第3代将軍。在職1623~1651。秀忠の二男。幼名、竹千代。家康・秀忠の遺志を継ぎ、武家諸法度・参勤交代の制などを整え、幕政の基礎を築いた。また、キリシタンを弾圧して鎖国体制を強化した。
輪王寺(栃木県日光市山内2300)に埋葬されています。
[1653~1724]江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者。越前の人。本名、杉森信盛。別号、巣林子。坂田藤十郎のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招いた。また、竹本義太夫のために時代物・世話物の浄瑠璃を書き、義太夫節の確立に協力した。代表作「国性爺合戦」「曽根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「傾城仏の原」など。
広済寺(兵庫県尼崎市久々知1-3-27)に埋葬されています。
[1730~1801]江戸中期の国学者。国学の四大人の一人。伊勢の人。号、舜庵(春庵)・鈴屋。京都に出て医学を修める一方、源氏物語などを研究。のち賀茂真淵に入門、古道研究を志し、「古事記伝」の著述に30余年専心。また、「てにをは」や用言の活用などの語学説、「もののあはれ」を中心とする文学論、上代の生活・精神を理想とする古道説など、多方面にわたって研究・著述に努めた。著「うひ山ぶみ」「石上私淑言」「詞の玉緒」「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「玉勝間」「鈴屋集」など。
山室山(三重県松阪市山室町字高峰1365)に埋葬されています。
[1733~1817]江戸後期の蘭方医。若狭小浜藩医の子として江戸に生まれる。名は翼、字は子鳳、号は鷧斎・九幸。前野良沢らと「ターヘル‐アナトミア」を訳出し「解体新書」として刊行。西洋医学を広く紹介した。著「蘭学事始」など。
栄閑院(東京都港区虎ノ門3-10-10)に埋葬されています。
5 日本各地の浦島太郎 | |
愛知県武豊町の浦島太郎 富貴駅 | |
愛知県知多郡武豊町に伝わる昔話には,この町が浦島太郎の故郷であると書かれています。武豊町にある富貴は「ふき」と読みますが,この読みは昔の「負亀(おぶかめ)」という地名から生まれたものです。負亀の音読みは「ふき」です。また,この地には現在も「浦之島」というような地名があります。 町内に残る浦島太郎の史跡を順に訪ねてみました。この作成に当たっては,武豊町図書館や歴史民俗資料館に大変お世話になりました。 | |
『武豊のむかしばなし』第14話 浦島太郎の故郷 「・・・まず,わしが話を聞いてもらいたいもんじゃ。 | |
①真楽寺 元亀元年8月に創立された寺です。大高山と号するのは,尾張藩の鷹所との関係からとも言われています。 この寺の本堂左下に小さな石があります。これが浦島太郎が助けた亀の墓だと言われています。 | 真楽寺 亀の墓 |
②知里付神社 第11代垂仁天皇26年菊月に少彦名命(すくなひこのみこと)を祭神として祀られました。この神社の社宝が「あけずの箱」で,浦島太郎が竜宮城から帰るときに乙姫様から贈られたものです。 明治時代の干ばつのとき,宮司がこの箱を船に乗せて海上でお祓いをすると,雨雲が発生し,大雨が降ったと案内板に書かれていました。 知里付神社の境内に浦島神社があります。 | 知里付神社 浦島神社 |
③四季咲きカキツバタ 弘法大師がこの地に来たとき,ここが浦島太郎の生誕地であると認めたそうです。その記念にカキツバタ,松,竹を植えたそうです。カキツバタは年中きれいな花を咲かせていました。しかし,今はその痕跡もありません。現在,ここには小さな池が残り,弘法大師と書かれた石碑が立っています。 |
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④浦島橋 昔はこの辺りを太郎が住んでいたところと言うことで「浦島屋敷」と呼んでいたそうです。 浦島太郎は橋の下を流れる浦島川を下り,竜宮城に向かいました。現在,この橋のある字名は「浦之島」といいます。 | 国道247号・浦島橋 浦島川 |
⑤負亀(おぶがめ)の松 太郎は海岸で子どもたちにいじめられている亀を助けてやりました。その亀が住んでいたのがこの辺りで,以前は白砂の海岸で,松がたくさん生い茂っていたようです。 亀は再び太郎の前に現れ,背に乗せて竜宮城に行きました。「亀に負(お)ぶさって」と言う意味からこの辺りの地名を負亀「おぶがめ」といいました。後に,この字の音読みの「ふき」が「富貴」と書かれ,地名となりました。 | かつて負亀とよばれていた所 現在は数本の松が残っています |
⑥乙姫橋 浦島太郎を出迎えた橋と言われています。 | 乙姫橋 遠景の煙突は火力発電所のもの |
⑦竜宮神社 竜宮保育園の南に隣接しています。 浦島太郎が竜宮城から帰った後の天長2年(825年)7月,竜宮城を偲び,海神である大綿津見神を祭神として建立されました。 常夜灯は1854年,江戸時代後期に千石船の船主たちが海上交通の安全を祈願して奉納したものです。以前は,この辺りまで海岸だったことが分かります。 | 竜宮神社 小さな祠です |
知多半島の東海岸 参考文献等 『武豊のむかしばなし』武豊町企画課 |